神になった警察官たち
台湾でのこのニュースを見て、・・・・・・
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/dqnplus/1210952744/l50x
神様」はサウスポー・・・じゃなく日本人
1 : ◆V3/DONjiko @変態仮面V3φφ ★:2008/05/17(土) 00:45:44 0 ?2BP(7869)
この町には「神」になった日本人がいる。森川清治郎巡査。神奈川県出身の巡査は日本統治時代の1901年、嘉義県副瀬村に赴任した。村人と親交を深め、常に庶民を守る姿勢が愛された。台湾総督府が課した漁業税の減免を総督府側に直談判。だが村民の納税拒否を扇動したと曲解されて戒告処分を受け、巡査は潔白を証明するため自ら命を絶った。 後に「義愛公」の名で祭られた。村の「富安宮」を訪ねると、地元の神々に交じって高さ55センチの巡査のご神体があった。管理者の一人、黄国哲さん(27)は「子供の頃、親から巡査のことを聞かされた。日本人でも台湾人でも偉大な人に区別はない」。巡査の ことを知った日本人もたまに参拝に来るという。制服姿にヒゲをたくわえ、厳しい表情で前をみすえるご神体に、生前のまじめな勤務ぶりを見た気がした
http://www.asahi.com/international/asiamachi/TKY200805110155.html
http://www.asahi.com/international/asiamachi/images/TKY200805110154.jpg
・・・・もう一人、思い出しました。
http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/1_all/jirei/100furusato/html/furusato087.htm
コレラに感染しながら防疫につくした警察官 増田敬太郎(ますだけいたろう)
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増田敬太郎
日清戦争が終わって下関条約(しものせきじょうやく)が結ばれた明治二十八年(一八九五年)、熊本県泗水村(しすいむら)(現在の熊本県菊池郡泗水町(きくちぐんしすいまち))出身で二十五歳の増田敬太郎(ますだけいたろう)は、警察官になる夢を抱いて佐賀県警察学校に入りました。 増田青年は、三ヵ月ほどかかる教習課程(きょうしゅうかてい)をわずか一〇日間で習得するなど優秀な成績で卒業し、佐賀県唐津(からつ)警察署に配属を命じられました。 当時の日本は伝染病であるコレラが各地で流行していましたが、この年は恐ろしいほどの広がりを見せた年でした。佐賀県東松浦郡入野村高串地区(ひがしまつうらぐんいりのむらたかくしちく)(現在の肥前町(ひぜんちょう))も例外ではなく、コレラが猛威(もうい)を振るっていました。しかし、この当時高串地区にいた駐在巡査(ちゅうざいじゅんさ)は病気がちで、村人たちを助けることができず、県の警察本部に応援を求めていました。
そこで、県の警察本部は、新任の巡査のなかに適任者(てきにんしゃ)はいないかと面接調査を行いました。その結果、知識もあって行動力のある増田巡査が抜擢(ばってき)されました。人一倍正義感が強い増田巡査はすぐに引き受け、唐津から交通機関が何もない山道をたどり高串地区に向かいました。 そして、赴任(ふにん)するとさっそく地区の様子を調査し、区長たちとコレラ対策を立てました。 高串地区の人々は、病気に対する恐怖を抱いていたもののコレラという伝染病に対する知識をあまり持っていませんでした。そのため増田巡査は先頭に立って患者の家の消毒を行い、縄を張りめぐらして人々の往来を禁止しました。また、生水を飲んだり、生のままの魚介類を食べないよう指導して回りました。 しかし、増田巡査の懸命の努力とは裏腹(うらはら)に、すでに手遅れの患者が薬を飲んで亡くなったのをきっかけとして、「毒薬を飲ませている」という何の根拠(こんきょ)もないうわさが広まったのです。このうわさによって、治ると思われる症状の患者まで「この薬は毒薬だから飲まない」といい出しました。増田巡査は村中を回り、根気強く人々の誤解を解いていきました。 また、病気が移ることを恐れて村人がコレラで亡くなった人の遺体(いたい)を運ぶことを拒(こば)むようになっても、増田巡査はたった一人で遺体を背負い、対岸の丘の上の墓地に埋葬(まいそう)しました。 しかし、患者への手厚い看病や予防活動に不眠不休(ふみんふきゅう)で取り組む増田巡査の疲れも極限に達していました。コレラは疲れきっていた増田巡査の体にも容赦(ようしゃ)なく襲(おそ)いかかり、高串に赴任して三日目の午後、とうとう倒れてしまいました。 「このようになっては、回復の見込みはないと覚悟しています。しかし、高串のコレラは私が全部背負っていきますから安心してください。また、村人たちには、私が指導したように看病と予防をしっかりやるように伝えてください」 死の間際(まぎわ)にこう遺言(ゆいごん)し、増田巡査はついに帰らぬ人となりました。 頼りにする巡査の悲報を聞いた村人たちは深い悲しみに暮れました。増田巡査が警察官になって七日目、高串に来てわずか四日目のできごとでした。 増田巡査の遺体は翌日、高串沖の小松島(こまつしま)で村人により火葬(かそう)されました。その後、増田巡査の言葉どおりコレラが収まり、村にはまた穏やかな平和な日々が戻ってきました。
肥前町高串地区にある増田神社
増田巡査の献身的な行為(こうい)に心を打たれた村人は、巡査の遺骨(いこつ)を分けてもらい、秋葉神社(あきばじんじゃ)の境内(けいだい)に埋葬し神殿づくりの石碑(せきひ)を建立(こんりゅう)しました。秋葉神社は、明治三十九年(一九〇六年)に神殿が建てられ、境内も拡張されました。その後、昭和十二年(一九三七年)に行われた現社殿の改築(かいちく)の際、秋葉神社と合祀(ごうし)して増田神社となりました。
肥前町高串地区では、毎年七月二十六日に近い日曜日に、警神(けいしん)となった増田巡査をしのび「増田神社夏祭り」が盛大に開催されています。 また、火葬された小松島には「警神火葬の碑」が建てられ、航海や漁での安全を祈る神様としても崇(あが)められています。 村人たちを守った増田巡査の偉業(いぎょう)は、地区の人々によって代々語り継がれています。
【出典、参考文献】
「神様になった人の話 増田敬太郎物語」増田さま一〇〇周年記念誌(肥前町企画振興課)/「巡査大明神全傳」内田守(増田神社奉賛会)
昔の人は偉かった、とか、すごいひとがいたもんだ、といいたいのではありません。昔は社会がすばらしい行動をした人物を素直に賞賛・評価できた 今、これができなくなったのはなぜでしょう?
私は、アメリカによる地域社会破壊策を主軸とし、地域経済窮乏化、コリアン・朝鮮カルト・共産系破壊工作員の流入・メディアによる地域社会破壊工作、神社を『宗教扱いすることにより、地域習俗解体を図っている』などのさまざまな要素が複合的に絡み合っていると思ってます。
【靖国神社参拝に反対する国内・国外の勢力の正体とはすなわち、この種の“日本の道徳の破壊”を狙っているのです】
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